全国重要文化財で、世界文化遺産「中国大運河の寧波区間」の重要な水利施設で、浙江省で最も古い水文観測所である。この碑は明州長官知府呉潜建が、宋の宝祐年間(1253―1258)に建て、平水の原理を利用して、城外の諸水門を「平」の横棒の出没によって、開閉することになり、水門の開閉が適当であれば、日照りや過度降雨量の心配がない。この碑(東屋)は明、清に継続して修理され、現在大部分の石亭建物が清の道光時期に建てられ、南宋の東屋基礎と明に建て直した「平」の文字石碑を保留した。
民国建物、市指定文化財で、盧洪昶と盧成章の親子の住宅である。盧洪昶は、字が鴻滄、日清戦争の時期に、上海船副理を務めて、奇計で渤海遼東間を往復する運輸船に危険状態を抜け出させて、商業界に威信が響き渡っている。彼は性格が正直で人情を重んじて、寧紹両地の庶民が差別された堕民の籍を脱去するよう工夫した。そして、堕民の子供を募集する学校を創設した。その子盧成章は、字が志学、同盟会会員で、イギリスに留学していた。1911年に帰国して辛亥革命に参加して、寧波を回復するように、百数人の学生を動員して、腕に白布を巻き付…
民国建物、市指定文化財で、表門、前堂、母屋から西洋式の三合院を構成している。この家は蒋介石の腹違いの兄弟蒋介卿が寧波で浙江税関監督を務めた時の住宅である。蒋介卿、名が瑞生、号が錫候、族譜の名が周康、介卿は彼の字で、清の末期に、寧波府で秀才を学んで、後四明専門学校法政科を卒業した。民国初年、蒋介石は上海に駐屯した時、蒋介卿は軍の司法官で、後、広東省英独県県長を担当し、その後、浙江省政府委員兼寧波の浙江税関監督を務めた。現在蒋家の表門の上方にある「蒋宅」二文字は元寧波市政治協商会議副主席毛虎翼によって…
明の万暦34年(1606)に、陸世科、李康先などの17人の寧波籍の学生は同時に挙人に受かり、寧波城内でセンセーションを巻き起こした。浙江長官巡府甘士階はこの17人の挙人が唐の杜如晦、房玄齢などの「18学士」のように朝廷に重用されるように祈るために、専らにこの3間4柱の「瀛洲接武」坊を建てた。坊の上に突き出ている立体の鶴、麒麟、獅子の頭、牛の頭を彫刻させて、生き生きとして、技術が巧みで完璧で、芸術性がきわめて高い。